Wall Posts Workshop Report

ドローイングの拡張のための実験

『ストーカー』(アンドレイ・タルコフスキー監督、1981年)の夢のシーケンスより

東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科(GA科)住友文彦研究室において、2017年5月12日、5月26日、6月2日の3日間に渡り、アーティストの鈴木ヒラクによる講義が行われた。その中で実施された“Experiments for the Expansion of the Sphere of Drawing”(ドローイングの拡張のための実験)と題されたワークショップにおいて、約10名の大学院生たちは、以下の問いにおける2つの空欄をそれぞれ埋めて発表した。

1. _____________はドローイングでもある。
2. ドローイングは_____________でもある。

その後、全体のディスカッションを経て、発表内容の傾向から二つのテーマによるグループ分けが行われた。主にドローイングにおける時間やリズムに着目したAグループ: <時間の強弱>と、移動や変容、反復の軌跡としての線を考察したBグループ:<循環/軌跡>。
これは、それら二つのグループによるレポートのまとめである。


A.時間の強弱
(共同執筆:宮川緑/高木遊/檜山真有/タニヤ・シルマン)

例えば音楽を聴いて、脳内に浮かんだ色やイメージの再現を紙の上で試みるとき、たいていの場合、思い通りには具体化できないというジレンマが発生する。掴もうとしてもこぼれ落ちてしまうイメージの断片があるからだ。しかし、むしろ実際に紙に描けなかった、または描かなかった断片の流れこそ、ドローイング的であるとは言えないだろうか。その行為には、まるでタイミングよく流れて来た流しそうめんを一瞬にして掴み取るような素早さが備わっている。積極的で意識的な選択というよりも、手先が勝手に動く。断片を掴むための抵抗として流れの中に手先を配置する。そこから紡がれる線がドローイングとして生き物のように形作られていく感覚は、溢れるほどの水の流れから自分にとって必要な断片が半ば無意識的に獲得され、そのほかを流していくというプロセスである。それは水墨画や一文字書の表現に近い行為なのかもしれない。

では、写真において何を撮るのか、そして何を撮らないのかという瞬間の取捨選択はどのように行われているのだろうか。森山大道は「爾来写真は、つねに光を〈化石〉化しつつ、世界のすべての記憶となって、したたかに時を刻印しつづけているのだ。」(森山大道『写真との対話、そして写真から/写真へ』、2006年、青弓社、155頁)と述べる。一般的な記憶行為は無意識に行われるが、歴史を刻む行為は常に意識的である。意識の有無という点においては、カメラのシャッターを押して写真を撮る行為は、意識的であることの最たる姿である。しかしそういった意識の装置としての写真が、逆に無意識を顕在化したり、瞬間的な意識と無意識の混沌を化石のように留めてしまうこともある。ドローイング的な写真、写真的なドローイングというのはこういったものではないだろうか。

一本の線として描かれる軌跡に複雑な物語があるという意味で、ロードムービーはドローイング的である。また、ドローイングの描く者の手癖を反映する独特のリズムはロードムービーにおける音楽とリズムの表象と共通している。1957年に出版され、2012年に映画化された『オン・ザ・ロード』においてジャズの使われ方は効果的である。彼らはたびたび、旅の途中で音楽が聴こえるところへ赴き、ジャズを聴く。そして車で移動する際に熱を持って感想を話すが話の中身はまるでない。それもそのはずである。彼らにとってこのおしゃべりこそが、音楽なのである。だからこそ中身より勢いやリズムのほうが重要なのである。この映画の中では、リズムによって物語や彼らの進むべき道が進んでいく。ドローイングにおいてもリズムというのは極めて重要である。それはリズムを生むと同時に、自らのリズムを習得していくプロセスでもある。ロードムービーも同様で、結果ではなくその経過を映し、そこに生成されていくリズムに物語を見るのである。

『オン・ザ・ロード』(ウォルター・サレス監督、2012年)のワンシーンより

映画におけるリズムについて特筆するべきは、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)の「時間のライブドローイング」とも言える特徴ではないだろうか。タルコフスキーの映画の特徴は、フレームの中の動きとリズムであり、シーンの象徴として雨、水、風といった要素を多用する。タルコフスキー自身が「時間の彫刻」”Sculpting in Time”と呼んでいるように、彼の映像は時間の流れや行為の過程の分析の結果とも言える。また、すべてのシークエンスには特有なリズムがある。タルコフスキーによると、シネマは日本の俳句のようなリズム、「生きているイメージ」と「純良な観察」を表現する手段である。
「ストーカー」という映画の中での「夢のシークエンス」において、水の中のものを上から見るシーンがあり、カメラは水面上を動く。そこには、長い間水の中に忘れられていたもの、機械の部品、小銭、さびた銃等がある。周囲の自然の反射や、泳いでいる魚も見える。カメラは最後に寝ている/夢を見ている「ストーカー」という主人公を捉えて静止する。
こういった流れの作り方は、その瞬間その場所で作るライブドローイングのスタイルである。ライブドローイングのアーティストは、紙の上で毎回異なる瞬間を捉えながらリズムを作る。タルコフスキーのカメラは、同じように、水と風の流れの中で様々な断片を拾いながらリズムを生成し、フィルム上に刻印する。


B.循環/軌跡
(共同執筆:三宅敦大/樋口朋子/杭亦舒/峰岸優香)

ワンワールド 就航都市 路線図 東京発着 引用元:スターアライアンスHPより

ドローイングを線的事象の生成や発見、及びそれらの過程であるとすると、そこには少なくとも二つのパターンが考えられる。一つ目は鉛筆で描く線のように運動の結果として線が生じるタイプのものである。これはいわゆる線的事象の生成にあたるものだ。二つ目は、星座のように既存の点を結ぶことで、線が生じるタイプのものだ。これは既存の線、つながりの発見とも捉えることができる。
一つ目のドローイングは動きによって決定されるものであり、画家の描くドローイングのように、主体と状況によって変化する動きにより生成される再現不可能なものと言える。それは線的な移動の軌跡のドローイングであるということもできるだろう。この意味において、GPSによる移動の記録や、飛行機の航路などもこの一部であると言える。

普段何気なく走っている夜の高速道路も、上空から俯瞰するとまるで血管のような姿を現す。数々の車は、血管内を循環する血液のようだ。流れるように走る光の軌跡はとどまることなく延々と続いて、まるで道路全体が大きな生命体に見える。どの車のライトもそれぞれ異なる速度で軌道を作り、その連続はリズミカルな点線となる。逆に運転者の目には、道を照らす街灯がリズムを刻んでいるかのように映る。血液の流れを止めることはできないのと同様に、交通の流れも24時間止まることを知らない。交通の中で動く車や光、人の動き、地球の自転、全てが複雑に絡み合った線の集合は、日々新しい循環を生成し続けている。

血管のCG図 引用元:リンクではなくウェブサイトのタイトル

このように交通をドローイングとして捉えることは、都市計画について考える時にも適用できるかもしれない。なぜなら都市計画の核心も、大地を支持体として、様々な関係性のもとに線を引くことであり、それは時間的変化を伴うグラフィックとして想像され、思考されるものだからである。
異なる目的による区分けをするために、人間は地上に見えない線を引くが、それは一つの時代の生活や特徴を反映する。様々な政治的理由、また国や王朝の更迭、もしくは戦争や自然災害により都市再開発が行われることもある。例えば漢の長安と唐の長安は同じ地域に存在したが、全く異なる都市であった。ドローイングが、支持体の上での想像や思考の時間的軌跡を反映しているように、都市計画は、ある場所における歴史という時間軸上の軌跡でもあるのだ。

左:漢の長安 右:唐の長安 程光裕、徐聖謨 『中国歴史地図』(中国文化大学華岡出版部、1980年)より

さて、二つ目のドローイングは言うなれば線分の集合であり、動きを内包しない。そのため、このドローイングはある意味で完成されており、それはイメージと条件の関係性のうちに、再現可能性を内包する。先に述べたように星座を例に取ると、それはどの星を繋げるかという条件さえ理解していれば、誰であろうと同じ線をイメージすることができる。そこでは主体や状況による差は生じない。また、星座はその条件自体が、ドローイングを規定し、ドローイング自体が条件を示すというある種のエコロジーの元に自立している。よって、それは循環のドローイングということもできるだろう。そう考えると、関数とそのグラフ(線)もこのドローイングの内に含まれるのではないだろうか。なぜなら、関数はそのグラフを規定し、そのグラフは関数を規定するからである。

また循環のイメージは、日本文化の「余白の美」にも見出せる。例えば鹿威しは「点景」と描写されるが、この装置が描く音景とは、単なる一元的な点と線ではない。たとえば、竹山道雄は鹿威しについて「静寂の中に点をうって、そのために時間がひきしめられている」と表した (竹山道雄著作集・8古都遍歴(福武書店刊)より)。鹿威しはその存在一つで完結するのではなく、家屋や庭園のなかに居住まい正しくおかれ、竹筒が岩をうつ音は虚空に響いていく。
かこん、と忘れたころに落ちてくる鳴き声。はっと現実に引き戻される近しさで聞こえることもあれば、どこか手の届かない方へ遠ざかってゆく響きも伴っている。集中と拡散、緊張と緩和、霧散と収束。相反する状態の交差点となって、鹿威しは時間と空間に対して広がりを持つだけでなく、聴く者の思考のなかに無数のハレーションを起こしていく。鹿威しを流れる水は、ゆるやかに∞の軌跡を描くようにして流れゆく。添水によって一定の間隔で繰り返される動きは、永遠の循環に等しくもある。その一方で、同じ行為が反復されているようでありながら、時はひたすらに進み、流れる水も、また静寂という状態も、かわり移ろうものである。不易流行とは松尾芭蕉の言葉であるが、無常さが尊ばれてきたこの国だからこそ、円環と刹那の双方を想起させる鹿威しが、永く人々の思索と共にあるのかもしれない。

鈴木ヒラク/アーティスト。1978年生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科修了後、シドニー、サンパウロ、ロンドン、ニューヨーク、ベルリンなどの各地で滞在制作を行う。ドローイングを核として、平面/インスタレーション/彫刻/パフォーマンス/映像など多岐に渡る制作を展開。著書に『GENGA』などがある。現在、東京芸術大学大学院美術研究科非常勤講師。