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Wall Posts Workshop Report

ドローイングの拡張のための実験

東京芸術大学大学院国際芸術創造研究科(GA科)住友文彦研究室において、2017年5月12日、5月26日、6月2日の3日間に渡り、アーティストの鈴木ヒラクによる講義が行われた。その中で実施された“Experiments for the Expansion of the Sphere of Drawing”(ドローイングの拡張のための実験)と題されたワークショップにおいて、約10名の大学院生たちは、以下の問いにおける2つの空欄をそれぞれ埋めて発表した。 1. _____________はドローイングでもある。 2. ドローイングは_____________でもある。 その後、全体のディスカッションを経て、発表内容の傾向から二つのテーマによるグループ分けが行われた。主にドローイングにおける時間やリズムに着目したAグループ: <時間の強弱>と、移動や変容、反復の軌跡としての線を考察したBグループ:<循環/軌跡>。 これは、それら二つのグループによるレポートのまとめである。 A.時間の強弱 (共同執筆:宮川緑/高木遊/檜山真有/タニヤ・シルマン) 例えば音楽を聴いて、脳内に浮かんだ色やイメージの再現を紙の上で試みるとき、たいていの場合、思い通りには具体化できないというジレンマが発生する。掴もうとしてもこぼれ落ちてしまうイメージの断片があるからだ。しかし、むしろ実際に紙に描けなかった、または描かなかった断片の流れこそ、ドローイング的であるとは言えないだろうか。その行為には、まるでタイミングよく流れて来た流しそうめんを一瞬にして掴み取るような素早さが備わっている。積極的で意識的な選択というよりも、手先が勝手に動く。断片を掴むための抵抗として流れの中に手先を配置する。そこから紡がれる線がドローイングとして生き物のように形作られていく感覚は、溢れるほどの水の流れから自分にとって必要な断片が半ば無意識的に獲得され、そのほかを流していくというプロセスである。それは水墨画や一文字書の表現に近い行為なのかもしれない。 では、写真において何を撮るのか、そして何を撮らないのかという瞬間の取捨選択はどのように行われているのだろうか。森山大道は「爾来写真は、つねに光を〈化石〉化しつつ、世界のすべての記憶となって、したたかに時を刻印しつづけているのだ。」(森山大道『写真との対話、そして写真から/写真へ』、2006年、青弓社、155頁)と述べる。一般的な記憶行為は無意識に行われるが、歴史を刻む行為は常に意識的である。意識の有無という点においては、カメラのシャッターを押して写真を撮る行為は、意識的であることの最たる姿である。しかしそういった意識の装置としての写真が、逆に無意識を顕在化したり、瞬間的な意識と無意識の混沌を化石のように留めてしまうこともある。ドローイング的な写真、写真的なドローイングというのはこういったものではないだろうか。 一本の線として描かれる軌跡に複雑な物語があるという意味で、ロードムービーはドローイング的である。また、ドローイングの描く者の手癖を反映する独特のリズムはロードムービーにおける音楽とリズムの表象と共通している。1957年に出版され、2012年に映画化された『オン・ザ・ロード』においてジャズの使われ方は効果的である。彼らはたびたび、旅の途中で音楽が聴こえるところへ赴き、ジャズを聴く。そして車で移動する際に熱を持って感想を話すが話の中身はまるでない。それもそのはずである。彼らにとってこのおしゃべりこそが、音楽なのである。だからこそ中身より勢いやリズムのほうが重要なのである。この映画の中では、リズムによって物語や彼らの進むべき道が進んでいく。ドローイングにおいてもリズムというのは極めて重要である。それはリズムを生むと同時に、自らのリズムを習得していくプロセスでもある。ロードムービーも同様で、結果ではなくその経過を映し、そこに生成されていくリズムに物語を見るのである。 映画におけるリズムについて特筆するべきは、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー(1932-1986)の「時間のライブドローイング」とも言える特徴ではないだろうか。タルコフスキーの映画の特徴は、フレームの中の動きとリズムであり、シーンの象徴として雨、水、風といった要素を多用する。タルコフスキー自身が「時間の彫刻」”Sculpting in Time”と呼んでいるように、彼の映像は時間の流れや行為の過程の分析の結果とも言える。また、すべてのシークエンスには特有なリズムがある。タルコフスキーによると、シネマは日本の俳句のようなリズム、「生きているイメージ」と「純良な観察」を表現する手段である。 「ストーカー」という映画の中での「夢のシークエンス」において、水の中のものを上から見るシーンがあり、カメラは水面上を動く。そこには、長い間水の中に忘れられていたもの、機械の部品、小銭、さびた銃等がある。周囲の自然の反射や、泳いでいる魚も見える。カメラは最後に寝ている/夢を見ている「ストーカー」という主人公を捉えて静止する。 こういった流れの作り方は、その瞬間その場所で作るライブドローイングのスタイルである。ライブドローイングのアーティストは、紙の上で毎回異なる瞬間を捉えながらリズムを作る。タルコフスキーのカメラは、同じように、水と風の流れの中で様々な断片を拾いながらリズムを生成し、フィルム上に刻印する。 B.循環/軌跡 (共同執筆:三宅敦大/樋口朋子/杭亦舒/峰岸優香) ドローイングを線的事象の生成や発見、及びそれらの過程であるとすると、そこには少なくとも二つのパターンが考えられる。一つ目は鉛筆で描く線のように運動の結果として線が生じるタイプのものである。これはいわゆる線的事象の生成にあたるものだ。二つ目は、星座のように既存の点を結ぶことで、線が生じるタイプのものだ。これは既存の線、つながりの発見とも捉えることができる。 一つ目のドローイングは動きによって決定されるものであり、画家の描くドローイングのように、主体と状況によって変化する動きにより生成される再現不可能なものと言える。それは線的な移動の軌跡のドローイングであるということもできるだろう。この意味において、GPSによる移動の記録や、飛行機の航路などもこの一部であると言える。 普段何気なく走っている夜の高速道路も、上空から俯瞰するとまるで血管のような姿を現す。数々の車は、血管内を循環する血液のようだ。流れるように走る光の軌跡はとどまることなく延々と続いて、まるで道路全体が大きな生命体に見える。どの車のライトもそれぞれ異なる速度で軌道を作り、その連続はリズミカルな点線となる。逆に運転者の目には、道を照らす街灯がリズムを刻んでいるかのように映る。血液の流れを止めることはできないのと同様に、交通の流れも24時間止まることを知らない。交通の中で動く車や光、人の動き、地球の自転、全てが複雑に絡み合った線の集合は、日々新しい循環を生成し続けている。 このように交通をドローイングとして捉えることは、都市計画について考える時にも適用できるかもしれない。なぜなら都市計画の核心も、大地を支持体として、様々な関係性のもとに線を引くことであり、それは時間的変化を伴うグラフィックとして想像され、思考されるものだからである。 異なる目的による区分けをするために、人間は地上に見えない線を引くが、それは一つの時代の生活や特徴を反映する。様々な政治的理由、また国や王朝の更迭、もしくは戦争や自然災害により都市再開発が行われることもある。例えば漢の長安と唐の長安は同じ地域に存在したが、全く異なる都市であった。ドローイングが、支持体の上での想像や思考の時間的軌跡を反映しているように、都市計画は、ある場所における歴史という時間軸上の軌跡でもあるのだ。 さて、二つ目のドローイングは言うなれば線分の集合であり、動きを内包しない。そのため、このドローイングはある意味で完成されており、それはイメージと条件の関係性のうちに、再現可能性を内包する。先に述べたように星座を例に取ると、それはどの星を繋げるかという条件さえ理解していれば、誰であろうと同じ線をイメージすることができる。そこでは主体や状況による差は生じない。また、星座はその条件自体が、ドローイングを規定し、ドローイング自体が条件を示すというある種のエコロジーの元に自立している。よって、それは循環のドローイングということもできるだろう。そう考えると、関数とそのグラフ(線)もこのドローイングの内に含まれるのではないだろうか。なぜなら、関数はそのグラフを規定し、そのグラフは関数を規定するからである。 また循環のイメージは、日本文化の「余白の美」にも見出せる。例えば鹿威しは「点景」と描写されるが、この装置が描く音景とは、単なる一元的な点と線ではない。たとえば、竹山道雄は鹿威しについて「静寂の中に点をうって、そのために時間がひきしめられている」と表した (竹山道雄著作集・8古都遍歴(福武書店刊)より)。鹿威しはその存在一つで完結するのではなく、家屋や庭園のなかに居住まい正しくおかれ、竹筒が岩をうつ音は虚空に響いていく。 かこん、と忘れたころに落ちてくる鳴き声。はっと現実に引き戻される近しさで聞こえることもあれば、どこか手の届かない方へ遠ざかってゆく響きも伴っている。集中と拡散、緊張と緩和、霧散と収束。相反する状態の交差点となって、鹿威しは時間と空間に対して広がりを持つだけでなく、聴く者の思考のなかに無数のハレーションを起こしていく。鹿威しを流れる水は、ゆるやかに∞の軌跡を描くようにして流れゆく。添水によって一定の間隔で繰り返される動きは、永遠の循環に等しくもある。その一方で、同じ行為が反復されているようでありながら、時はひたすらに進み、流れる水も、また静寂という状態も、かわり移ろうものである。不易流行とは松尾芭蕉の言葉であるが、無常さが尊ばれてきたこの国だからこそ、円環と刹那の双方を想起させる鹿威しが、永く人々の思索と共にあるのかもしれない。

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Drawing Tube vol-03

Drawing Tube vol.03 アブデルカデール・ベンチャマ x 鈴木ヒラク ドローイング+トーク Abdelkader Benchamma x Hiraku Suzuki Drawing+Talk 日時: 2017年11月12日(日)14:00-16:00 会場: トーキョーアーツアンドスペースレジデンシー(旧トーキョーワンダーサイトレジデンス) ヴェネチアビエンナーレ、シャルジャビエンナーレへの参加、NYのドローイングセンターでの壁画など、世界的なコンテンポラリードローイングシーンを牽引するアブデルカデール・ベンチャマが、ドローイングの領域を拡張し続ける鈴木ヒラクと共に、ドローイングを通した実験的対話 「Drawing Tube vol.3」を行います。 洞窟壁画や宇宙物理学など、互いの作品制作に共通する関心事を出発点とし、話すこと/描くこと/書くことを通して、新たなドローイングの可能性を探ります。 http://www.tokyoartsandspace.jp/archive/2017/10/r1010.shtml

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Drawing Performance: Abstraction from Germany and the United States

‘Drawing Performance: Abstraction from Germany and the United States’(ドローイングパフォーマンス:ドイツとアメリカにおける抽象表現)という展覧会がベルリンのインガ・コンダイナ・ギャラリーにおいて開催されている。 当企画はネブラスカ州を拠点に活動している作家でありキュレーター、James Bockelman (ジェイムズ・ボッケルマン)のもので、ベルリンからの作家9人、アメリカからの作家6人の作品で構成されている。この展覧会は1年を通して3つの異なる場所を巡回した。最初にネブラスカ州リンコルンのタグボートギャラリー、続いてネブラスカ州コンコルディア大学のマックスハウゼンギャラリーにおいて開催された後、ベルリンのギャラリーインガ・コンダイナへと巡回している。 展示に際して、ボッケルマンはジョン・ケージの言葉の引用から、今までカテゴライズされる事のなかったドローイングという「分野」について改めて疑問提示をしている。 “What is a drawing? No one knows any longer… Something that doesn’t require that you wait while your making it for it to dry? Something on paper? It’s question of emphasis. Thanksgiving. Art…” ドローイングとは何か?もはや誰も知らない…。何かを作っていてそれが乾く間になされるだけの必要ではないもの?紙の上の何か?それは重要な疑問だ。感謝の祈り。アート…。 ドローイングとは何か?この問いに対するボッケルマンの答えは、今日のドローイングは「もの事が起こる場所」と言うことだ。その上で、ドローイングに関する3つの基本的な要素、「表面」(Surface)、 「活動」(Activity)、「登記」(Registration)をあげている。 彼の文章によると、「表面」とは作家がパフォーマンスを行った所、もしくはこれから行われる場所の事だ。作家が素材にドローイングを行う以前に、「表面」にはレディメイドのイメージが存在している。例えばボール紙のパッケージや未完のクロスワードパズル、もしくは真っ暗な劇場など。ただの一枚の白い紙でさえ、そこには既に心理的な緊張感がある。作家はそういった表面に対して、一本の線を引き、それぞれの境界を指し示す。…

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Drawing Tube vol-03

Drawing Tube vol.03 アブデルカデール・ベンチャマ x 鈴木ヒラク ドローイング+トーク Abdelkader Benchamma x Hiraku Suzuki Drawing+Talk 日時: 2017年11月12日(日)14:00-16:00 会場: トーキョーアーツアンドスペースレジデンシー(旧トーキョーワンダーサイトレジデンス) ヴェネチアビエンナーレ、シャルジャビエンナーレへの参加、NYのドローイングセンターでの壁画など、世界的なコンテンポラリードローイングシーンを牽引するアブデルカデール・ベンチャマが、ドローイングの領域を拡張し続ける鈴木ヒラクと共に、ドローイングを通した実験的対話 「Drawing Tube vol.3」を行います。 洞窟壁画や宇宙物理学など、互いの作品制作に共通する関心事を出発点とし、話すこと/描くこと/書くことを通して、新たなドローイングの可能性を探ります。 http://www.tokyoartsandspace.jp/archive/2017/10/r1010.shtml

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Drawing Tube vol-02

Drawing Tube vol-02 伊藤存、鈴木ヒラク ドローイングセッション&トーク「本を描く」 2016年9月17日(土) 16:30 – 18:00 会場:TOKYO ART BOOK FAIR 動物や植物、自然の光などをモチーフとし、それらの記憶の断片のような線を描く刺繍作品で知られる伊藤存。路上に偏在する記号の断片や、光の現象を取り入れながら、ドローイングの領域を拡張し続ける鈴木ヒラク。二人は昨年12月にポーランドにて行われたインターナショナル・ドローイング・トリエンナーレの滞在制作でアトリエをシェアすることになり、それぞれの制作を行いながら、時折雑談をしていました。今回のセッションでは、線を描くことに独自に向き合ってきた二人の作家が、対話しながら同時にドローイングを行います。二人によって描かれた線は、左右2分割したスクリーンにそれぞれリアルタイムに投影され、互いに呼応しながら、時間軸上に架空の本が作り出されます。

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Drawing Tube vol-01

Drawing Tube vol-01 鈴木ヒラク ドローイング・パフォーマンス ゲスト:吉増剛造 2016年9月4日(日)start / 14:30 end / 16:00 入場無料(free entrance) 会場:東北芸術工科大学 本館1Fエントランス 山形ビエンナーレ2016 国内外でドローイングの領域を拡張しつづけるアーティスト、鈴木ヒラク。山形ビエンナーレでは、鈴木ヒラクの新プロジェクト「Drawing Tube」の第1回目イベントを開催します。ゲストに詩人の吉増剛造を迎え、『書く』と『描く』の間をテーマに、ドローイングパフォーマンスを行います。 二人の対話〈交信〉が、図像や文字となり、会場に敷かれた約60mのロール紙に即興的に記録されます。この痕跡はパフォーマンス終了後もそのまま保存し、 ビエンナーレ会期中常設展示します。「書く/描く」ことの可能性を追求し続ける二人によるセッションから、私たちはどのような新しいことばを発見するので しょうか。

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Drawing Tube vol-00

Drawing Tube vol-00 出演:鈴木ヒラク(アーティスト) ゲスト:坂口恭平(作家・建築家・音楽家・画家・新政府内閣総理大臣・自殺者ゼロ運動家) 2016年8月19日(金)open / 19:30 end / 22:00 2,000円(1ドリンク付)会場:Shimauma 国内外でドローイングの領域を拡張しつづけるアーティスト、鈴木ヒラクの新プロジェクト「Drawing Tube」のローンチイベントを開催します。ゲストに坂口恭平を迎え、二人によるドローイング+トークセッションを行います。 「図像/文字」の交信ともいえる二人の対話から生まれる新しい言語は、私たちの思考にどのような痕跡を刻むのでしょうか。